2024年8月30日金曜日

マタイ6章の隠れた秘密

 マタイ6章には、キングジェームズバージョンにしか、書かれていないクリスチャンを励ますために非常に重要だと思われる箇所がある。

Mat 6:3  あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。 

Mat 6:4  それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 

Mat 6:5  また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 

Mat 6:6  あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 

Mat 6:17  あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。 

Mat 6:18  それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。

ここに、3回「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。

とあるが、実は、「報いて下さるであろう。」KJVでは、ここは「明らかな形にして・公然と・ギリシャ語でファネーロー、英語でopenly という前置きがある。すなわち、クリスチャンが

①「施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな」

➁自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。

 ③断食をしていることが人に知れないで、

という前提を守りながら神様に願えば、確実に答えられるという約束である。

いずれも





2024年7月18日木曜日

ジグソーパズル

テキストレセイプタスと(キング・ジェームズバージョン)ーネストレアランドテキスト(口語訳・新改訳・新共同訳)との議論は、ジグソーパズルの組み立て方についての議論のようなものである。

日本では、主な(圧倒的な)使用されているテキスト(底本)はネストレアーランドテキストであって、他のテキストはほとんどもちいられていないのが現状である。

しかし、全世界でネストレアーランドテキストがキング・ジェームズバージョンの販売数をしのぐようになったのは、1987年以降の事である。それまでは、1611年に英国で欽定訳聖書として発刊されてから300年以上テキストレセイプタスが用いられてきた。

それでは、テキストレセイプタスとネストレアーランドテキストの違いは何なのかを、なぞをかけるように説明しよう。

この2つのテキストの是非の議論は、2種類のジグソーパズルがあり、一種類目は

まずは、キング・ジェームズバージョンであるが、

このテキストは次のように例えられる。

市販されている普通のジグソーパズルには、完成した時にほどのような絵や写真になるのかというお手本があって、購入者はその絵や写真をたどってパズルを完成させていくように、聖書のテキストも原本が損なわれないで残っていて、しかも原本のほとんどがしっかりと保存されているので、ほんの少しだけ足りないところのピースを見つけて埋め合わせて完成させればよいという考えである。しかも、テキストレセイプタスの底本となっているビザンチンテキストは、マジョリティテキストと呼ばれるほどに、圧倒的な数が保存されている。(ビザンチンテキスト9:他の全てのテキスト1)ーーー(4000:400)また、西ローマではない地域で1500年間使われてきたテキストである。

したがって、キング・ジェームズバージョンは、テキストレセイプタスを底本として作られたビザンチンテキスト(4000以上の数があるが、冠詞や接続詞の有無、大文字小文字等の差異をのぞけば、意味の違いは存在しないに等しい、数パーセント以下である。)を底本として、何万とあるピースがほとんど完成したものとして、残りのわずかなピースをこの4000の中から聖霊に導かれたものを採用している。

もう一つは、

ネストレアーランドテキストである。

このテキストは、もともとのパズルの完成図など存在しない。ただ、何千と言うピースそのものは存在していて、完全にはめ込むことができれば、完全な絵や写真に近い者ができるであろう。しかし、現在は完全といえる完成品は存在しない、という考え方である。

つまり、こうである。

「もともと聖書の原本は完全に壊れてしまっていて、完成したらどのような絵や写真になるかはだれも分からない。したがって、その時代その時代の最高の技術と英知とによって慎重に復刻させて、推測しうる最善のテキストを回復させていかなければならない」というものである。

もっとも、このネストレアーランドテキストも、何十万というピースが完全にばらばらとしているわけではない。彼らは、アレキサンドリアテキストという、バチカンテキストとシナイテキストという二つのテキストを底本とたものを基としている。

彼らがこの二つのテキストを採用している理由は、ビザンチンテキスト=マジョリティテキストよりも歴史が古いと考えているからである。

彼らの主張によれば、アレキサンドリアテキストは、3世紀ころに作られた写本であり、ビザンチンテキストはそれよりも新しい4世紀の作であると主張している。

これ以外にもこの2種類のテキスト編集の理由があるが、専門的になるので、今回はここまでにする。これ以降のことは、別の項で語らせていただくかもしれない。

2024年6月22日土曜日

 この投稿では、翻訳の進み具合いについて書いているわけだが、読んで下さっている皆さんには感謝している。

しかし、まことに申し訳がないが、その順番はまったく筆者の主観によるものである。

つまり、教会での説教や聖書研究のテーマに沿って翻訳している。

残っているのは、ローマ、1*2コリント、ヘブル、黙示録という重たいものばかりであるが、この度黙示録に着手した。

それは、聖書翻訳と同じく研究対象として20年以上費やしてきた終末論の締めくくりのひとつとしてである。

なお、終末論については、別のブログで、執筆している。


2024年6月17日月曜日

 筆者がニュースキングジェームズバージョンの翻訳と編集の結果を、最初にブログに掲載を始めたのは2004年であるが、最初はギリシャ語のテキストレセイプタスからの直訳であった。

筆者は神学校で授業科目の一つとして、単に単位をとるためにギリシャ語を学んだだけであって、ギリシャ語に習熟しているとは程遠い者である。

そこでまず、マタイ福音書の主要単語の翻訳からはじめた次第である。本ブログにあるギリシャ語辞典はその一部である。いずれ、全文を掲載をする。

この辞典にふってある番号は、翻訳に用いたストロングの添付番号である。

翻訳にあたって、ギリシャ語の文法の翻訳については、英語のキングジェームズバージョンを参考にしている。

この手法は、マタイ、テサロニケ、テモテ、テトス、ペテロでも踏襲した。

しかし、あまりにも煩雑で時間がかかり、しかも、KJVの読みは米国人でさえ難しいと、アメリカから帰国したクリスチャンから聞いたので、内容の変化がなく、しかも読みやすいとされるNKJV採用することにした。

翻訳してみて、実際に底本として問題がないと確信したので、現在も採用し続けている。


2024年6月14日金曜日

現在の編集状況

 拙い筆写の翻訳を、お読みいただいている方には恐縮で感謝しかない。

しかし、この聖書はキング・ジェームズバージョンを翻訳しているわけであるが、単なる翻訳本としてではなく、自分自身が「聖書」として読みたいと願って翻訳を始めたので、何回も版を重ね、とうとう20年にもなってしまった。

わがままであるが、とにかく、KJV「聖書」を正確かつ日本語としても、自分の主観であるが、より読みやすいものを欲しているので、このような長期になってしまった。

マタイやルカはTYPE1.TYPE2まで、TYPE1では、一句一句、ギリシャ語から吟味した聖書を、TYPE2は、より読みやすいものを、(たとえばマタイがである調に対して、ルカがですます調)そして、おそらくこれが最後の版になるであろうが、TYPE1-2を結合し、かつKJVとNUとの比較を重視したものを翻訳中である。

そして、この結果を他のすべての書簡に適用した聖書を完成させたいと願っている。(すでに、テサロニケ人への手紙ーピレモン、ペテロでは採用している)

忍耐してお読み下さっている方には、申し訳なく思っているが、もともと自分のために始めた翻訳であり、私が読んで主の御名を崇めることができるようになって、それを共に信仰によって分かち合うことができれば本当に幸いな事である。


2024年6月9日日曜日

 編集者から

当時神学校の校長だつた米国の宣教師を通してキングジェームズバージョンの存在を知ったのが今から約40年前、同時にキングジェームズバージョンディフェンディフェデドをコピーさせてもらつたのをきっかけに翻訳を試み始めたのが約30年前、ブログを始めたのが20年前、そしてやむを得ない事情のため、10年ブランクをおいて、約40年目にこのわざを再開できたのは主のめぐはとしか言いようがない。

その間に、行く種類かの翻訳本が出版されて入るようでこのことも喜ばしいことでもある。

私も愚直な思いではあるが、坦々とこの作業を続けて行きたいと思う。



2024年4月30日火曜日

栄光のチーム

 

飛び上がるほどの喜び

て立った。

10その星を見て、彼らは飛び上がって喜んだ

飛び上がるほどの喜び

とは、ギリシャ語では、メガレー・スフォドラと、言います。それは、メガ:巨大な

スフォドラ:恐ろしいほどの カラ:喜び

という意味です、 


アスリートの栄冠それを得た時の喜びについて考えましょう。

アスリートの代表である大谷選手は、大金を得る契約をしましたが、彼はそのお金を後払いするようにしました。

そうすることによって、優秀な選手をドジャース球団と契約してもらって、強いチームをつくることができます。

彼は、それによって、ワールドシリーズに出て、優勝したいのです。

彼は、優勝して「飛び上がる」ほど喜びたいのです。

 

さて、アスリートが競技で優勝すると、何が得られるのでしょうか。

一般にスポーツで優勝すると、トロフィーだったり、優勝の記念のリングや盾などが授与されますが、それは何億円もするものではありません。

しかし、その賞品は、それを持っている人が、世界最高のアスリートであることを証明します。アスリートたちは、その何ものでも代えがたいその栄誉を手に入れて、「飛び上がる」ほどの喜びを味わいたいのです。お金以上を手に入れる事以上に「飛び上がる」ほどの喜びがある栄誉が欲しいのです。

ところで、野球はチームプレーです。

優勝した時に、チームの一員として栄誉を与えられます。

イエス・キリストのチームに 


飛び上がるほどの


て立っ


10その星を見て、彼らは飛び上がって喜ん


飛び上がるほどの


とは、ギリシャ語では、メガレー・スフォドラと、言います。それは、メガ:巨


スフォドラ:恐ろしいほどの カラ:


という意味です




アスリートの栄冠それを得た時の喜びについて考えま


アスリートの代表である大谷選手は、大金を得る契約をしましたが、彼はそのお金を後払いするようにしまし


そうすることによって、優秀な選手をドジャース球団と契約してもらって、強いチームをつくることができま


彼は、それによって、ワールドシリーズに出て、優勝したいので


彼は、優勝して「飛び上がる」ほど喜びたいので



さて、アスリートが競技で優勝すると、何が得られるのでしょうか


一般にスポーツで優勝すると、トロフィーだったり、優勝の記念のリングや盾などが授与されますが、それは何億円もするものではありませ


しかし、その賞品は、それを持っている人が、世界最高のアスリートであることを証明します。アスリートたちは、その何ものでも代えがたいその栄誉を手に入れて、「飛び上がる」ほどの喜びを味わいたいのです。お金以上を手に入れる事以上に「飛び上がる」ほどの喜びがある栄誉が欲しいので


ところで、野球はチームプレーで


優勝した時に、チームの一員として栄誉を与えられま

イエス・キリストのチームの一員として優勝した時に手に入れるものは、永遠の命と栄光の体です。

さて、東から来た賢者たちは、その時代の、最高の賢者であり、政治家であり、将軍であり、すべての面での指導者でもありましたが、現代のように、世界中の人々の話題になることもないしいくら有鬚でもノーベル賞をえられることもありませんでした。

しかし、彼らはイエス・キリストの優秀なことを信じて彼のチームに加わることによって、永遠の命と、栄光の体という、どんな栄誉よりもはるかに優れた2つの栄誉が得られることを知っていたからです。


イエス・キリストは、30歳になってこの世でチームリーダーとして活動を開始すると、まず、ガリラヤ湖の漁師であった、ペテロたち4人を「わたしについて来なさい」と言ってスカウトしました。

つまり、私のチームに加わりなさい、という意味です。

彼らは、イエス・キリストがを身近で接していて、彼があらゆる点で超一流の人間であることを知っていたので、すぐに自分の仕事を捨てイエス・キリストについて行きました。

イエス・キリストの最高のアドバンテージは、彼が万能者である神の子で、神のすべての能力を引き継いでいたことです。

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(注:ことばはイエス・キリストこと)

、もし永遠の命があって、それを得られる方法が見つかれば、たとえ自分が世界中の人々から賞賛されるトップアスリートであったとしても、すべてを放棄して永遠の命を得ようとするでしょう。

その永遠の命は、チームのオーナーである神様と神様の子であるイエス・キリストが、自分に強い関心と好意とを持っていることを信頼して彼のチームに加わる人に与えられます。

永遠の命という栄誉は、どんな競技を優勝して得られるよりも、はるかに優れた栄誉だからです。

 第二に、栄光のからだという栄誉です。

世界一のアスリートであっても、衰えて引退の時がきます。一時的には、何年間もその競技でのトップアスリートであっても見劣りがするようになります。

そして、人間は最終的には死をもってすべての人は人生を終えます。

しかし、イエス・キリストのチームにいる真のアスリートたちが受ける栄誉は、復活によって手に入れます。

イエス・キリストを信じる人は、栄誉として栄光の体に変わります

。栄光の体は、歳をとらない、けが、病気がない、肉体として完全、すべての物を管理する知恵と能力を持つからだです。それを、栄光の体(1コリント15章)

イエス・キリストを全世界の創造者、そして万能の神の子として信じて、彼のチームに加わったら、これらの栄誉を与えると、聖書は約束しています。これらのことを、聖書は神様の「契約」だと教えています。

新約聖書の「約」は、この「契約」の約のことです。